うつブロ【うつ病社会人のブログ】

うつ病でも前向きに生きたい。そんな人が書いてるブログ。

人付き合いは難しい

僕は冷たい人間なんじゃないかと思う。

 

今日は友人と映画鑑賞に行った。

鬱々とした気分を晴らしたいから、

他人と接して無い事に危機感を覚えたから、

そんな思いで珍しく出かけた。

 

結果、

行かなきゃよかった。と後悔している。

 

映画が退屈だった事も理由の一つではあるが、

それ以外の時間、

例えば談笑も今一つ盛り上がらず、

移動時間は少し苦痛で、

食事も楽しさというものが無かった。

 

これはあくまで僕の感想だが、

ただただ彼(彼女)の暇つぶしに付き合わされて

時間を浪費してしまったように感じている。

 

僕が彼(彼女)に期待し過ぎてしまったからなのだろうか、

(同じ時間を共有する事で素晴らしい経験が出来ると思っていた?)

それともつまらない映画に機嫌を損ねているのだろうか、

おそらく両方だろう。

 

こんな気分になるなら最初から断っておけば良かったとは思う、

だがもし自分のやりたい事が見つかった時に気軽に誘える人が居たら

僕としては凄くありがたい。

だから友人の誘いはなるべく断らないようにしてきた。

これで良かったのだろうか。

 

映画鑑賞は体力を使う、

登場人物に感情移入してしまって気分の高揚が激しくなるから。

今日だけで3作品観た。

疲労で頭が回っていない。

何かもやもやしたものが脳を覆っている感じがする。

 

今日はもう寝る準備をしよう。

こんなに疲れた状態で考え事なんて出来やしないし

出来たとしてもネガティブな事ばかり考えてしまいそうだ。

 

人付き合いは難しい。

最初は「この人は良い人だ」と思って近づいてみると

少しずつその人の黒い部分が見えてくる。

そうして僕の中の限界に達すると、

僕は迷いなく連絡帳から削除してしまう。

自分の貴重な時間をその人に割くのが勿体ないから。

 

そんな風に思ってしまう僕は

「自己中心的な人間」なのだろうか

それとも

「冷たく無感情な人間」なのだろうか。

どちらにしろあまりいい響きではない。

 

独りで過ごす時間は楽だ。

周囲に何も気を使わなくて済む。

 

 

 

 

 

孤独は心に火を灯してくれる

孤独は凄く良いものだと僕は思う。

 

これまで自分の周りで起こった出来事を反芻させ

良かった事・良くなかった事を考える。

良かった事は継続させ、

良くなかった事は改善するよう努めていく。

 

これまでこういう人生を過ごしてきたが、

最近になって

より反芻させる事に飢えてきた。

 

孤独は良い。

 

思考に集中できる。

誰にも邪魔されず、

誰の考えも及ばず、

ただただ自分の思いを研いで研いで、

磨きをかけ完成に近づけていくようなそんなもの。

 

この生きづらさは僕に課された宿命だ。

その宿命は時として牙を剥き、

僕に向かって容赦なく襲ってくる。

それで僕は心が折れたり、

対処が分からず絶望感に駆られた。

 

だが時が経ち、

価値観が変わり、

視野も広がってくると、

その宿命とやらを

何とかして滅ぼしてやろうと

胸の奥がぼうぼう反逆心が熱を帯びてくる。

それはまるで暗闇に灯された火のようで、

『生きたい』と思う気持ちが燃料となり

勢いを増していく。

 

これが『生への執着』というものだろうか、

 

もしかしたら

世間で言うところの

ゾーン状態』や『フロー状態』

なのかもしれないが、

僕としては一つの『到達点』についに

辿り着けたのかと興奮を覚えている。

 

孤独は良い。

自分の生き方を、

改めてニュートラルな立場で見直す機会になる。

そこから自分の生きがい・やりたい事を

見つけていければ事態は好転していく。

 

まだ僕は諦めない。

何者でもない『他者』から与えられた、

この『生きづらさ』という宿命が

一体どういうものなのかを

僕はまだ知れていない。

それを知るまでは死ぬ気にはなれない。

 

それに立ち向かう思考力は

徐々にだが身についている。

 

あとはその宿命に

正面から立ち向かっていくのみだ。

 

結果がどうであれ

以前の僕よりは練度が増してるだろう。

 

孤独は良い。

僕の狭かった視野をこじ開け

思考力・探究心をくすぐり

生きる意欲を与えてくれた。

 

まだ火は灯っている。

このままこの熱意を持って

社外に挑んでいきたいところだ。

 

例え今が躁状態なのだとしても。

 

 

 

 

僕はなぜ今も生きていられるのか

これまで何度も自殺しようと試みたが、

現在もこうして生きていて、

しかも文章も拙いのにブログという媒体で

「自分の考えや意見」等を発信している。

 

なぜ僕はまだ生きれているのか。

正直に書こう、

僕は自殺すること怖くて怖くてたまらない。

 

更にそこから掘り下げていき、

なぜ「自殺」を恐く感じているかというと、

自分の思った通りに簡単には死ねないからだ。

 

以前のブログで

「首吊りが最も簡単でコスパが良い」というようなことを書いた。

確かに今でもコスパは良いとは思っているが、

首吊り自殺に関するレポートだったり、

遺族が記した文書を読むうちに、

良くも悪くも首吊り自殺の現実を知ってしまった。

 

僕は首吊り自殺のプロではない、

(↑そんなプロが居てたまるか)

だから失敗する可能性も当然ある。

 

例えば、

縄の結びが甘く途中で解けてしまったり、

結んだ箇所の耐久性が低くこれまた途中で落下してしまうことがあるだろう。

 

こうして死にきれなかった場合、

要するに失敗してしまった場合は身体に障害が残ってしまう。

20代後半にして植物人間にはなりたくない。

それならば今のまま人生に悩み続けながら生きていく方がマシだと

考えるようになった。

だからまだ生きている。

 

僕はこれからも、

またこれまで通り

つまらない事に悩み眠れぬ夜を過ごし、

つまらない事で気分を左右され自己否定に陥り、

つまらない事で死を意識するだろう。

 

そんな人生は終わりが見えず、

しかも険しく厳しいものだろう、

だが「死」がそれ以上に残酷で過酷なものであるとしたなら、

僕は生きる道を選ぶ。

 

1週間後、

半年後、

また1年後の自分が「生きる道」を選んでいることを

自分事ながら望んでいる。

 

仮にもし価値観が大きく変わり

僕が自らの決断で「死」を選んだとしたならば、

僕の人生は所詮その程度なんだと思う。

 

 

 

後記

昨夜から一睡もできず長い夜を過ごしたが

その分今まで放置していた悩みにまで思考を巡らすことができた。

だから一度思考を衝動的に文章化したくなり

この記事は珍しく夕方ごろに執筆した。

だが書いている途中で感情が込み上げてきて、

気付けば涙を流していた。

(↑何故か左目からしか涙が出ない)

これほど自分の感情を素直にまっすぐ表現できる媒体は他には無いだろう。

 

 

 

 

動画編集に挑戦した話

前回の投稿から10日間ほど日が空いた。

 

その期間に何をしていたのかと言うと……

YouTubeに動画を投稿していた。

f:id:KNTpaper:20210717011017p:plain

作成したサムネイル

我ながら困難な道に足を踏み入れてしまったものだと思っている。

 

ただでさえ失職もおかしくない不安定な状況下に置かれているというのに

僕は何をしているのだろうか。

↑暇だから動画編集・投稿に挑戦してみたかった

 

正直な話、

動画編集を甘く見ていた。

 

編集手順をザックリまとめるとこうだ

  1. 動画の不要部分を削除
  2. 映像の加工・修正(僕の場合はモザイク加工)
  3. 字幕作成(喋りに自身が無い為、字幕に頼っている)
  4. 動画内音楽の調整

この工程で大体5~6時間かかる。

↑間違いなく僕の編集スキル不足ではある

 

”1”と”2”は合わせて1時間ほどで終わる、

”4”も30分もあれば終えられる。

 

問題は”3”の「字幕作成」だ。

これが実に面倒で地味で時間のかかる作業だ。

 

ブログの文章作成ならそこまではかからない、

(ここまで389文字を5分で書いた)

だが動画は違う。

その映像の尺だったり編集点によって

文章の長さや言い回し、動画に表示される時間等を

柔軟に変えていかなければならない。

しかも動画の尺が長くなればなるほど

作成する字幕の量も増やす必要が出てくる。

 

現状は動画はまだ3本しか投稿していないが、

あまりにも編集作業を面倒に思っているからか

こうやって振り返るだけでモチベーションが燃え尽きていくのが分かる。

 

ただ、

自分一人で一から作り上げた作品をこうして

発信していくのには多少のやりがいというか達成感はひしひしと感じている。

 

それに良いこともあった。

YouTubeには「コメント」という機能があり、

動画の感想や意見等を書き込んでユーザー間で共有できるのだが、

(今更すぎる情報な気もするが)

そこで僕の行動を肯定するようなコメントが書かれていて、

そのコメントを見た瞬間、

それはもう子供の様に素直に嬉しかった。

↑誇張表現ではない

 

動画編集ソフトに9000円ほど支払ったが、

凄く良い経験をさせて貰っている。

↑何故か上から目線に見える

 

今も相変わらず、

希死念慮に悩まされる毎日ではあるが

今回のように新しい事に挑戦できたことは自分の事ながら

よく前向きに行動できたものだと思う。

 

僕はうつ病に罹ってから

何となく気力の湧かないような日々を過ごしてきたが、

少しだけ ほんの少しだけ色味が戻ってきたような気がする。

↑回復期なのだろうか

 

だが決して無理はせず、

自分なりのスローペースで歪んだ感性を元に戻していきたい。

 

 

 

 

 

「生きづらい」から「死にたい」へ

「どうして死んではいけないのか」

 

うつに罹って3年目となるが、

僕はずっと自分が課したその問いに悩まされてきた。

 

僕にとって死は「救済」だ。

社会に出てからというものの生きていても辛い事ばかりで

楽しいと思える事なんてこれっぽっちも無い。

こんな狂った社会で生きていくくらいなら死んだ方がマシだと

今でも思っている。

 

先月の上旬

5週間しっかり「脳」を休ませなさい、と医師に言われ

長め(?)の休職期間が始まった。

それでも脳が休まってる気はしない。

自分の将来・未来が心配で、考え事が頭を巡り廻り続けて

眠れない夜も少なくはなかった。

 

この期間はなるべく社会に馴染めるように、

色々な人に会うよう努めた。

衣類を新調し、友人と食事に行き、アクティビティを楽しみ、趣味に没頭した。

それでも気持ちが晴れるのはその一瞬だけで、

すぐに暗い感情に襲われた。

現実は変わっていないと気付いてしまうから。

 

僕は自分の意見を曲げるのが嫌いだ。

 

新卒の頃、職場の先輩に食事に連れられた事がある。

「俺、このあたりで美味い店知ってるから連れてってやるよ」

なんて言うものだから新人社会人の僕は大層期待して店に向かった。

 

着いた店は子供の頃によく行っていた”安いと話題の”バイキング店だった。

肉・寿司・サラダ・デザート等々、幅広い層が楽しめる店だ。

各宅に備わっている鉄板で肉を焼き口に運ぶ、

そして僕は心底がっかりした。

まったく美味くなかったからだ。

それでも先輩は満足げに肉を食べ進め

「どうだ?美味いだろ?」と僕に訊ねてくる。

「この肉ですか?不味いですね」なんて言おうものなら

この場の雰囲気を壊すどころか後々の仕事関係も危うくなると思い僕は

「凄く美味しいです。こんなに素晴らしい店を知れて良かったです」と返事をした。

 

このような気遣いをしなくてはならない場面が毎日どこかで発生する。

他人の顔色に合わせて自分の意見も変えていく。

それが僕からすると苦痛でしかない。

 

という話を周囲の人にすると

「柔軟性が無いね」

「協調性に欠ける」 と言われる。

 

その度に僕は

「あぁ、自分はこの社会には適応出来ないのか」と思わされてきた。

 

先ほど記したが、

この5週間は多くの人に会うよう努めた。

(↑それでも社交的な人からすると少ないとは思うが)

大学の友人・元職場の同僚・友人の友人など、

僕にしては随分と広く動いたと思う。

だがその分、疲労も大きかった。

 

僕は気にしいな性格で、

自分の些細な一言で相手に不快な思いをさせたくないと思う節がある。

例えば、僕は発言する前に自分の意見を何度も咀嚼して

誰の逆鱗にも触れないような”柔らかく””優しい”言葉に変換する。

これが酷く疲れるのだ。

自分の思いの丈を素直に他人に話せたらどんなに気が楽か、

と常に感じさせられる。

 

だがそれは社会では広く認められていない。

僕のような他人と意見を合わせない人間を周りは良くは思わない。

 

今所属している会社は

休職が明け次第辞めようと思っている。

入社してまだ2か月だが退職、また職務経歴に傷がついてしまう。

次の転職で苦労するのは分かっているが、

だとしても今は働ける状態ではないと思っている。

「死」を身近に感じすぎている。

 

6月末の記事を見返して

「あと少しの期間生きてみませんか」なんて

偉そうなことをよく言えたものだと思う。

 

今は僕自身が希死念慮・自殺願望に囚われている。

死にたくて死にたくて堪らない。

外に出なくとも死ねる手段はいくらでもある。

 

それでも僕は死んでいない。

まだこの社会に希望があるんじゃないかと心のどこかで思っている。

だから社会と向き合い、自分に問い続けてこうして記事を書いている。

 

自殺志願者とは一般的にはネガティブでマイナスなイメージに捉われがちだが、

実際は「誠実社会に対して情熱をもって挑んできた人達」なのだと勝手に思っている。

 

「どうして死んではいけないのか」

 

きっとその問いに答えは無いのだろうが

僕は探求せずには居られない。

 

その探求心がまだ僕をこの世に繫ぎ止めてくれているのだろう。

 

 

 

余談

ブログを開設して1月ほどしか経っていないが

「よく続けられているな」と我ながら意外に思っている。

ブログを始めてからの変化として文章力が向上した。

記事を書く速度が増し、以前より早く執筆を終えられるようになった。

これは飽き性の僕にとっては大きな一歩だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生きる理由はもう『無』い

『社会は険しく辛い』

これは誰しもが感じている事だろう。

 

4週間ほどの休職期間で色々と思い耽っているうちに

そこから、ある一つのことに気づいてしまった。

 

『この世に意味のあるものはない』

 

一度そう気づいてしまうと、

これまでの人生、そして現在、この後の未来にも

意味を見出せなくなる。

哲学における『無』とはこの事なのだろうか。

何をしても満たされない。

 

これもうつ病の症状なのだろうか?

おそらく違う。

 

この社会で生きる事は僕には厳しすぎた。

仕事では自分より権威を持つ上司に恐怖心を抱き

内心ビクビクしながらも嫌われないよう接してきた。(↑今では嫌われても良いと思うようになった)

プライベートでは一人でいたいものの、

独り者は寂しいやつだと言われ続けてきたので

友人作り、作れた友人関係の維持に尽力していたら

疲れ果てて動けない日もあった。

 

生きづらさを感じる。

自分の理想の生き方は他の人間から見ると

どうも異質らしい。

 

僕は自分で言うのもなんだが、

人に誇れるよう自律した生活を送ってきたつもりだ。行動面も他人に見られても恥ずかしくないように律してきたし、思考面も道徳を心に刻み日々を過ごしている。

 

だが社会は違う。

多くの事に悪意が満ちすぎている。

たとえ不正があったとしても

程度によっては無かったこととされる。

 

これまで真面目さと誠実さのみで生きてきたぼくにとっては、そんな社会に溶け込むという事は

『自分の精神を穢す』に近い。

(↑自分が優れてると言いたい訳ではない)

堕落したくないのだ。

 

そうもがいてはみたものの。

結果的に至った考えは

『人生は辛いがそこに意味はない』ということ。

 

只々虚しい。

この感情は言葉にし難い。

生きる気力も一気に消え失せた。

 

だが辛い出来事は無意味だとは思えない。

論理的な説明は出来ないが、

どんな出来事でも僕はショックを受けるだろうし、

それがその後の生活に支障が出ることもあるだろう。

 

それよりも楽しいことに関しては無意味だと考えてしまうようになった事が非常に大きな問題だ。

こうなると何をするにも気力が湧かない。

今までやってきた独学も運動も、何も意味がなかったのでは?と考えてしまう。

これでは寂しさ、虚しさしか感じられない。

 

このまま職場復帰をしても良いものだろうか。

いや、きっと復帰できる状態ではない。

 

昼ごろ会社から電話があった。

今回の休職によって退職となる可能性があることも視野に入れてほしい。とのこと。

 

残酷だ。

僕が何をしたと言うんだ。

 

自暴自棄になりそうだ。

前職の会社では色々な理由をこじ付けられ

根負けして自己都合退職となってしまった。

 

これ以上は履歴書を汚せない。

たとえ後に退職させられることになろうとも

なんとか会社にしがみついてギリギリまで働き通して勤務年数を稼いでやる。

 

会社がそう来るなら僕はそれに反抗してやる。

 

そんな『反逆心』だけが今の原動力となっている。

 

だが果たしてその行動に意味はあるのだろうか。

きっと無いのだろう。

 

生きる意味はとうになくなってしまったが

死ぬ意味は積もるほどある。

 

また希死念慮が迫ってくる。

それは忘れた頃にふと急にやってくる。

だが実際は僕はそれを忘れてなんかおらず、

いつも脳の片隅の方でジッとこちらを覗っていたのだろうか。

 

もう死んでしまいたい。

僕にはこの社会が野蛮すぎた。

 

もし生きようとするならこの汚れた社会に倣って

精神を堕とし穢すのが手っ取り早いのだろう。

 

だがそれは僕には許せない。

真面目さ誠実さを失うくらいなら僕は死を選ぶ。

 

だから死にたいんだ。

だから僕は死にたいんだ。

こんな後ろ向きな考えを相談してみたが

誰にも理解されなかった。

 

僕は孤独だ。しかも金も無い弱者だ。

 

生きているのがどうでもよくなる。

首を吊る道具なら自作すれば幾らでも用意できる。

だがきっと極限で思いとどまるだろう。

そして死ななかった事に自己嫌悪をするんだ。

 

なんて味気ない、なんて非生産的な行動。

 

だが、このまま『無』を追求していくと

死ぬ事に対して思いとどまることは無くなるだろう。

 

死は目前に迫っているのかもしれない。

 

生きたい。とは思えない。

僕の傍にはいつも死が存在している。

 

 

 

 

 

 

 

うつ病当事者による運動のススメ

突然だが

うつ病改善の一案として僕は運動を薦めたい。

理由を以下に述べる。

 

運動によりHPA系(視床下部―下垂体―副腎)の変化が起きていると考えられており、ストレスと関係を持つHPA系は、うつ病患者では機能異常が見られる場合が多いが、運動はそれらを改善し、ストレスへの反応性を調整している。
 また、運動をすると海馬の神経新生が促され、抗うつ効果があるVGFや、セロトニン等の神経伝達物質、またはBDNF(神経栄養因子)も分泌されることなどから、抗うつ効果が認められる。等々……

 

そんな理屈はどうでもいい(←そんなことを言ってはいけない)
 

僕は運動(筋トレ)が好きだ。

運動(筋トレ)があるから生きていけると言っても過言ではない。

 

何故かって?

理由は単純

「気持ちが良いから」

 

それ以外に理由は無い。

運動が好きだからと言って別に運動神経に恵まれた訳ではない。

中学では体育の成績で「2」より上をとったことは無いし(←5段階中の2)

高校では3年間通して「3」だった(←10段階中の3)

 

走るのも遅く(50m走で9秒)

バスケ・バレー・サッカーではチームの足を引っ張り、

武道では対戦相手によく張り倒されていた。

 

そんな

運動もといスポーツに対して軽いトラウマを抱く僕でも胸を張って言えることは

「運動をすると前向きな気持ちになれる」ということ。

 

うつ病で出歩くのもキツイのに運動なんて無理だよ……」

 

その気持ち、凄くわかる。

 

これは僕の体験談だが

うつ症状が強いときは疲労感で身体が重く、頭も働かなかった。

だから食事・入浴・排泄以外ではベッドから動かない日もあった。

(食事は1日1回、排泄は部屋で済ませた時もあります)

僕以外でもうつ病でこれに近い状態の方も居るとは思う。

そのような状態で医師が薦めるような「15~20分の有酸素運動」なんて

行えるはずがない。

 

だから「運動」と言ってもハードルを高く設定せず最初は

「家のポストを見に行く」とか

「深夜にコンビニへ出かける」とか

そういった取り組み易いものから行っていき、

徐々に活動を増やして最終的に

「ウォーキング」でしたり

「ランニング」のような運動が出来るようになればそれで充分だと僕は思う。

 

 

僕は試行錯誤した結果、夜のウォーキングが当時の自分に合っていた。

その理由は3つあって

  1. 人通りが少ないので疲労を感じる場面も少なくて済むこと
  2. 周囲が暗い為、視覚情報が減り余計な考え事をしなくても良いこと
  3. ランニングに比べ運動量が少なく、その後の生活に支障が出づらいこと

上に挙げた理由から、神経質で心配性な僕でも運動を続けることが出来て、

生活習慣も少しずつ改善され気持ちも以前より前向きになった。

 

 

(以下 余談)

 

ちなみに現在の僕は

ダンベルやバーベルを扱う「レジスタンストレーニング」を行っており、

(↑これがいわゆる筋トレと呼ばれるものだろう)

それに伴って身体づくりに関する知識を学んでいる最中だが

レーニング理論の根源は

 

それなりに喰って

 それなりに動いて

  たくさん寝る とのこと。

 

この「小難しいは全て省きました」と言わんばかりのシンプルさが良い。

 

急に自省となるが

おそらく僕はこれまで社会人として生きる上で、

物事を複雑に捉えすぎたのだと思う。

「肩の力を抜け」とか

「もっと気楽に生きろ」なんて言葉をかけられてきたが

その真意には

 

「世の中のあらゆる物事は君が思うほど複雑ではなくて、

もう少し思考を単純化した方が生き易いよ」

 

という意味を含んでいたのではないだろうか。

 

生きる上で重要なのは

「食事・睡眠・運動」

仕事なんてものは生きていく手段でしかない。

 

「人生は思っていたよりシンプルなのかもしれない」

筋トレを通じて僕はそう考えるようになって

沈んでいた気持ちが少し軽くなった。

 

僕の凝り固まった価値観を大きく変えてくれた。

だから僕は運動(筋トレ)が好きなんだ。